停滞しない生き方とは~コラムのはじまり~
「視界」
~いま、ここ~
先日、久しぶりに電車に乗った。
私が住む町は車社会のため、公共交通機関をつかうことが私は滅多にない。だから息子も、遠足などの学校行事や旅行に行くときくらいしか、電車やバスに乗ることがない。
私の職場は自宅からバスと電車を乗り継ぎ、街中を歩いて辿り着く1時間くらいの場所にある。
日曜参観の振替休校日に、一人で私の職場までくるというミッションを息子に提案し、息子はその提案に乗った。
そのミッションのために、最寄り駅や乗り換え時刻などを調べ、まずは練習しようということになったのだ。
田園の緑の景色の中を走るローカル線。
規則正しくリズムを踏む電車の揺れる音。
規則正しく並び、規則正しく揺れるつり革。
穏やかな時間が流れていた。
ローカル電車の一両目。進行方向の先頭に座る親子。
真っすぐつづく線路を、進行方向に向かって進んでいくのを車掌側の窓から見る。
レールに沿って進む電車。
私は、ただ進み続ける線路を、人生に置き換えて眺めていた。
「この通過点は、人生でいうと何歳くらいだろうか。」
5分の1くらいのところかな・・、まだまだ30歳代ってところかな・・、
このレールに沿う生き方は、果たして本当に順調で安全と言えるのだろうか・・
そんなことを考えながら、私は進んでいく線路を見ていた。
ふと、正面から目線が反れ、車両の右側の窓から外をみた。
さっきまでの私の視界にあったのは、まっすぐつづいている線路だった。
視線が反れた途端に、建物や道路がある景色が後ろに流れていく。
いったいどれほどの景色が流れていっていたのか、真っすぐ進む線路を見ていた時の私は知らない。
確実にそこにあった建物や電柱や車や道路や人という存在たちを、私は一切知らないでいた。
そこに流れていた、曇り空の外の明るさから感じる「温度や風の心地」というメロディーを全く知らない私がいた。
そして、右側の窓から見える景色に視線をやると、当然、前を進む線路は見えない。
見えていない“景色”は、常に、いつもある。
ミッション当日。
会社に行く前、息子にテーブルの上にある腕時計を身につけることを伝えた。
テーブルには、リモコンやボックスティッシュ、コースターが雑然と並ぶ中、青い腕時計が埋もれていた。
その光景を見て、「忘れないようにね」を言わないために、時計以外のものを全てテーブルから外した。
テーブルを見る視界には、まるで「ここにいるよ」と訴えかけるように存在感を放って、腕時計が浮きだっていた。
視界は、
クリアであればあるほど、
シンプルであればあるほど、
集中しやすく、
心も整っている状態が続き、
惑わされない。
目の前にある、自分と対峙していることに自ずと「知覚」できるからだ。
シダ植物のアジアンタムについている複数の枯葉を茎の根からとると、
とても細く小さな芽が出ていることに気づいた。
原色のクリアファイルの上に置いてあった、カラフルなスワロフスキーの指輪は、
目の前にあるのに見つけられなかった。
外から、建物に囲まれていないかわいい形の家にある、2階に一つだけある大きな窓からテーブルに向かい合う男女が見え、まるで絵本の1ページを思った。
澄んだ青色が近くに感じる昼間の空と、
星の存在を教えてくれる天井のない夜の空。
目の前が青い空なら青い空を見る。
星一面の空なら星の瞬きを知る夜空を見る。
自分が眺める「視界」という“いま、ここ”について、
私たちは普段どれほど注意を向けているだろうか。
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